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2014年6月 6日 (金)

近代麻雀の記事、私の父母。

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高知の牧野植物園。


●私の父親山崎寅吉は
他人の子を2人育て上げた●
「あたしのお母さんも、もう80歳過ぎてるし、
今のように健康でいっしょに居られるのは
いつまでか分からない。もっと今の時間を
大事にしたいと思うようになった」
 と西原理恵子さん。
「これまで仕事を優先させて来たけど、
子供の独立も近いだろうから、
そちらもたいせつだし」とも。
私は西原さんよりもかなり年上ですが、
遅ればせながら似たような思いになりました。
ただし仕事や日常の些事に追われて、
実行はほとんどできていません。
私の実の父親と母親はだいぶ前に亡くなってます。
義理の父親の山崎寅吉は80歳を過ぎて健在です。
実の父親の小松正直とは、
両親の離婚で子供のころに別れてるので、
思い出は多くありません。
山師の大酒飲みだったので、
別れた後にも時々プレゼントとして
酒を持って行ったことがあります。
高知県は昔から離婚率の高い県で、
私の周りは前後左右上下360度、
離婚者だらけでした。
もっとも離婚したい人の数は統計上
あまり取り上げられないので、
たんに自分たちの感情に正直
な人が多いだけなのかもしれません。
 それと、高知では離婚しても完全に縁を切らない人が
多いとも言われていました。
母親の山崎春子は後に年下の岡倉寅吉と再婚しましたが、
2人の子供たちには自由に実父と会うのを認めてました。
それは初婚だった寅吉も同じでした。
(余談ですが、私は学生時代に、
岡倉寅吉名義でギャンブルの記事を買いてたこともあります)
なので、離婚後再婚後も、私は実の父親の再婚相手の子供と
良くいっしょに遊んでたほどです。
「あたしら親どうしは他人になったど、
あんたらはいつまでも親子じゃ。自由に行き来すりゃええ」
新しい父(以下父)は元もとは鍛冶屋だったんですが、
結婚相手の2人の連れ子(姉美智子と一夫)を育てるために、
様ざまな仕事を
様ざまな場所でしてました。
私も中学生の頃には、父といっしょに鉄工所でアルバイトをしてました。
 高速回転するグラインダーの破片を受けて、
顔に大きなキズのある男や、プレス機で片腕を落とした男たちが
真っ黒になって働いてました。
風呂は、真っ赤に焼けた鉄塊を、
コンクリートの浴槽に放り込んで沸かしてました。
ちょっとした水蒸気爆発が起きるから怖いですよ。
高知県での仕事が無くなると、徳島県や大阪に
出稼ぎに行きました。
結婚はしたものの、女房とはあまりいっしょにいることもなく、
県外で働き続けていたんです。
 一度父を訪ねて、真夏に大阪の寝屋川の
文化住宅に行ったことがあります。
父が住んでいた当時の文化住宅は、
文化とは名ばかりの大きな木造の古びたアパートでした。
廊下の両側に部屋があるんですが、その廊下には大きな
穴が開いており、板を渡してあるだけ。
直すお金が大家さんにも店子にも無かったんでしょうね。
誰もクーラーを持って無いので、
向かい合った部屋の引き戸は開けっ放しで、
裸同然のお互いの姿が見えてました。
 父は元もと貧乏だったので、そういう生活も
苦にはならなかったようです。
どれだけ貧乏だったかと言う話を父に聞いたことがあります。
父が小学低学年のころに、父の父親が亡くなった時、
親戚の誰も葬儀をしてくれなかったと言います。
しかたなく父は、父親の遺体を大八車に乗せて、
一人で火葬場まで引っ張って行ったそうです。
今と比べると、貧乏のケタが違いますね。
 寝屋川を訪ねた当時、子供だった私は、
特に感謝の気持ちも無かったんですが、
西原さんにこの話をすると、
「立派ねえ、涙が出ちゃう」
 と言ってくれました。
 
母親は十数年前に亡くなりました。
ちょうど、たぬ新宿店を作っている時で、
重病の母親のそばに、あまりいてやることは
できませんでした。
「一夫は頑張りよるのう、私もその店に投資したいくらいじゃ」
いくつになっても、子供を褒めることを忘れません。
 母が無くなる数日前に、こんなことを言ってました。
「いよい寿命かと思うと、最初は私も動揺した。
けんど今はそれを受け入れてみんなに囲まれて、
心が平らかに(安らかに)なった。ありがとう。
私はええ男の子を生んだのう」
 私を見上げて目を細めてました。
 母は離婚して子供2人を育てるために、
ずっと働き続けてました。
「親は子に生き方を教え、他人にはできない、
死に方も教えてくれる」
 というのを実感しました。
 母は意識が薄くなった状態が何日も続いてましたが、
とうとう危篤に陥った時に、病室の父から
東京の私に電話がありました。
「イカン、おかあが死によるぞ」
私にはどうすることもできません。
看護師さんの声も聞こえます。
「山崎さん、春子さん、まだ死んだらイカンよ」
 懸命の救命医療をしてくれたようですが、
母は戻ってきませんでした。

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箱根ロープウェイ。
●親孝行をしたい時には親は無し
にならないように●
長々と個人的な昔話ですみません。
先に書いたように、父は出稼ぎが多かったので、
私といっしょに暮した、
正味の年数はそんなに長くありません。
私が保育園児の頃から、高校を出るまでの10年の
うち半分くらいだと思います。
2人の子供を女房といっしょに育てましたが、
成人した子供に近くに居てくれとか、
言ったことはありません。
「お前は東京に行くのか。そりゃええ。
男は親にひっついちょちゃあイカン」
 母が亡くなった後1人になっても、
老後の面倒を見てくれということもありません。
 最近は、たまに私と姉が温泉に誘うのを喜んでいるようです。
 私が上京する時に誓ったのは
「親より早く死なないようにしよう」という、
ハードルの低いものでした。
 すでに実の両親が無くなり、
今の父親は80歳を過ぎてますが元気です。
 誓いはまだ続くのでした。

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